祖父と戦争 その8

さて 祖父の警察官生活も 4年となりました
(前回のブログは こちらへ→「祖父と戦争 その7」について)

そのまま 同じ所に勤務をしていました

時々 共産軍の襲撃などがあるとの情報があり トウチカで警備をしたりする事もあったようです

それ以外は 平和な日々を過ごしていたようです


この頃の祖父が家族に宛てた手紙には ”戦局の推移に伴って 中国人の中にも日和見的な態度をとる者が無しとは言えない”と書いてありました

日本の戦況の悪化によって 協力的だった中国人の中には 態度を変える者がいたようです



上海公園にて・・・
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警察官と その家族
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Kさんの出征の日(スーツを着た人がKさんだと思います)
警察官は召集がなかったので 彼は警察官では無く 領事館の関係者か?知人?だと思われます
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邦人の射撃大会
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さて その頃の日本の話をここで少し・・・


祖父の実家では 1番目の妹は働いていた工場を辞め 将校さんの家に行儀見習い(お手伝い)へ その後 すぐに結婚して嫁いでいきました(昔には珍しく 恋愛結婚でした)


2番目の妹は やはり働いていた工場を辞め 航空審査部の測定班(事務員)で働き始めます

徴用といって 軍事関係で働くこととされたため 近くで募集のあった航空審査部の面接試験をうけて 働き始めたそうです




ここからは 2番目の妹のYさんに聞いた話を元に書いています



2番目の妹が働いていた 航空審査部ですが 新しい飛行機の性能を測定する所です

祖父の妹は 尋常小学校の高等科卒業だったので √の計算やその他 測定に必要な計算の仕方が分からず 家に帰ってからも何度も勉強したそうです

コンピューターや計算機はないので 計算尺で計算をしていたそうです


新しい飛行機に乗るのですから パイロットも優秀な人ばかりです

早く新しい飛行機の性能を知りたいパイロットたちは 事務員に仕事を頑張ってもらいたくて 色々な物を差し入れしてくれたそうです

差し入れの品は 南方にも日本の領土があった頃なので 飛行機で運んできた バナナなどだったそうです



航空審査部では 審査結果が載った極秘書類を 市ヶ谷の本部まで届ける係は 女性事務員が行っていました

女性が そんな重要な書類を持っているはずがないと思うだろうとの事で 女性が持って行くことになっていたようです


もちろん 祖父の妹も 時々 その任務に就く事があり 二人一組で市ヶ谷まで電車に乗って行くのです

その際には 何かあったらこれを飲んで自決しろ!!と 青酸カリの小瓶を持たされていたそうです




祖父の妹は 当時20歳前後でした

お国のためなら 命も差しだす・・・・ 何でもしなければならない世の中だったんですね


日本軍の活躍を載せているカードです
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写真の説明書きには ○○と言う感じに 場所や作戦名などが伏せられています

戦意高揚のための品物だったんですね




太平洋戦争もいよいよ 末期となってくるのでした



長くなりましたが お読みいただきありがとうございます


私的なものなので コメント欄&気持玉は 閉じさせていただきました

いつもたくさんのコメント&気持玉をありがとうございます

いつになるか 分かりませんが 続きます