キャベツをもらった

宮城の伯母から キャベツをもらいました・・・っていっても この写真 1ヶ月くらい前だな(汗) 包んである新聞紙に興味津々・・・ たぶん 伯母の家の猫の匂いがするんだろうな 河北新報 宮城では メジャーな新聞です 昔 父方の祖父が話してたことがあったけど 祖父は 戦中 上海(日本の領土だった場所)で警察官をしてた そこで 知り合った人で宮城出身の方がいて 警察官だったか?操船の仕事をしてた方だったか?昔 聞いた話なので うろ覚え(汗) その方が いつも 本土から河北新報を わざわざ取り寄せて読んでたっていう話をしてた 東北の情報が多く載ってるから 故郷を懐かしんでいたんでしょうね 戦後ずっと経ってから 祖父の息子(私の父)が 宮城出身のお嫁さん(私の母)を貰い 夏休みに 祖父も一緒に宮城に行ったことがあった その時は 戦後40年以上経った頃だったと思ったけど 祖父はせっかく来たなら・・・と その方は漁師さんになり宮城の島にいたようで 昔の連絡先を頼りに 電話をかけてみていた・・・ 残念ながら その方は数年前に亡くなり 息子さんだか娘さんが出て 祖父が 少し昔話をしていたのを覚えている 祖父は上海で警察官をしてたってこともあるけど 終戦後すぐは 日僑管理所といって 日本人を帰国させるための役所で仕事をしてたため 色んな方と知り合ったよ…

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祖父と戦争 その11

今日は終戦の日・・・ 長きにわたり ちょこちょこ 更新してきた 祖父から聞いた戦争中の話ですが 前回から 1年も時間がたってしまいました 前回の記事はこちら →祖父と戦争 その10 終戦の日を迎えた祖父ですが その時の様子を具体的に語る事は あまり ありませんでした 祖父が亡くなってから 古い手紙を整理していると 終戦直後 中国から帰った知人が 祖父の近況を知らせる手紙を 実家に送ったものが見つかりました 祖父の無事が 家族に分かったのは 終戦の翌年の1月の事・・・ その知人の手紙によってでした 手紙によると・・・ 祖父たちは 終戦後 書類などを処分し・・・領事館を閉鎖 8月26日 上海に向かうため 南通邦人たちと船に乗船 翌27日に上海に到着し そこで 仲間とともに 自炊生活をしていたそうです どの日本人もそうでしたが 荷物を盗まれたり 1か月の間に住む場所を何度も変えたりしなければならない状況に置かれたそうです 幸い 祖父たちは 荷物を盗られる事もなく 無事に逃げる事が出来たようでした 9月 10月頃には 少しばかりの配給があったそうです 10月頃までは まだ警察の仕事があり 上海で外勤をしていたようですが その仕事も出来なくなり 毎日 何をする事も無い日々を過ごしていたようです 混乱…

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祖父と戦争 その10

今日は 終戦の日ですね 前回から かなり月日が経ってしまいました (前回のブログはこちら→「祖父 祖母と戦争 その9」について) 古い手紙の解読に手間取り・・・ 時間がかかってしまいました 長く 書き続けてきましたが いよいよ 終戦の日を迎えることとなりました 祖父は中国で 祖父の一番下の妹は 航空審査部で 終戦の日を迎えることとなりました 終戦の日 大変だったのは 祖父とその妹 まず 妹は 航空審査部にいたので 資料をすべて近くのお寺に運び 1日以上かかって すべてを燃やしたそうです そこの所長だか?責任者は敗戦の責任を感じたのか 多摩川の土手で 割腹自殺をしてしまったそうです その資料を燃やす作業がひと段落すると 妹は家に帰りました ところが そこで 軍隊と関係のあるモノを持っていると アメリカが来て逮捕されるという噂を 耳にしたそうです 祖父の妹は 航空審査部にいた時に ウサギの毛皮で出来たパイロット用のズボンを貰って持っていたので 慌てて父親と一緒に作業をして 細かく刻んで 燃やしてしまったそうです あとから分かる事ですが それは全くのデマで こんな小さな村まで1軒1軒 家を調べるようなことは無かったそうです それから 祖父 武器はすべて中国側へ引き渡し 領事…

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祖父 祖母と戦争 その9

祖父の事ばかり書いてきましたが・・・ (前回のブログはこちら→「祖父と戦争 その8」について) その頃 祖母は 東京の麹町にあるお屋敷でお手伝いをしていました(昔の日本テレビがあった辺りの場所と祖母が言っていました) 祖母がお手伝いをしていた家は 娘夫婦が銀行の支店長でした 中国の支店へ転勤になったため 祖母がその両親たちの 身の回りのお世話をするために勤めていました お屋敷の周りでは同じような大きな家がありました 戦争が激しくなるとともに 隣の家では 毎朝 避難訓練をしていたそうです そうして 祖母は東京で 3月10日の東京大空襲を経験することになりました 被害が酷かったのは 東京の下町の方でしたが・・・ 麹町界隈にも 爆撃機が飛んできたので 慌てて家から出て 四谷公園の方へ みなで 走って逃げたそうです 祖母が言っていたのですが この時 四谷公園の方へ逃げなかったら 火事に巻き込まれて 死んでいただろうと言っていました たまたま 家から出て そちらの方向へ 走って逃げたので良かったと言っていました あとから 分かった事ですが 祖母のいたお屋敷に広い所なら安全だと思った人が逃げ込み 火災旋風に巻き込まれ 何人も死んでいたそうです 焼け出された祖母たちは お屋敷のご主人の親戚がい…

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猫も キャットタワーから落ちる

朝 カーテンを開けたら 鳥が来ていたのか?? ピエールがキャットタワーから 夢中で 外を見ていました ぶんぶん しっぽを振っています ガラス窓に張り付いています さらに 夢中になるピエール このあと バランスを崩して 落っこちてしまいました ネコっぽくない ダサい落ち方でしたが カメラにおさめる事が出来ませんでした どうやら ピエールの 運動神経が鈍いのは 私に似てしまったようです(汗)  < 日記 >  今日 2月25日は 八高線脱線転覆事故のあった日です 詳しい内容はこちら → http://www5a.biglobe.ne.jp/~techare/29144280/ (当時の写真も載っています) 事故があったのは 1947年2月25日 7時50分頃 実は この列車に 私の祖父も乗っていました 祖父は 当時 上海から引き揚げてきて 家業を継ぐために警察官を辞めたばかりでした そして 買い出しへ行くため 事故の起きる2駅前に この電車に乗り込みました 買い出しに行く人たちがたくさん乗っていて すし詰め状態で 祖父が乗ろうとしていた駅に列車が到着した時には すでにブレーキの利きが悪かったのか オーバーランをして 駅に停まったそうです 毎日 利用していた祖父は乗る所が決まっていたそうなんですが 列車が通り過ぎてしまったので慌てて い…

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祖父と戦争 その8

さて 祖父の警察官生活も 4年となりました (前回のブログは こちらへ→「祖父と戦争 その7」について) そのまま 同じ所に勤務をしていました 時々 共産軍の襲撃などがあるとの情報があり トウチカで警備をしたりする事もあったようです それ以外は 平和な日々を過ごしていたようです この頃の祖父が家族に宛てた手紙には ”戦局の推移に伴って 中国人の中にも日和見的な態度をとる者が無しとは言えない”と書いてありました 日本の戦況の悪化によって 協力的だった中国人の中には 態度を変える者がいたようです 上海公園にて・・・ 警察官と その家族 Kさんの出征の日(スーツを着た人がKさんだと思います) 警察官は召集がなかったので 彼は警察官では無く 領事館の関係者か?知人?だと思われます 邦人の射撃大会 さて その頃の日本の話をここで少し・・・ 祖父の実家では 1番目の妹は働いていた工場を辞め 将校さんの家に行儀見習い(お手伝い)へ その後 すぐに結婚して嫁いでいきました(昔には珍しく 恋愛結婚でした) 2番目の妹は やはり働いていた工場を辞め 航空審査部の測定班(事務員)で働き始めます 徴用といって 軍事関係で働くこととされたため 近くで募集のあった航空審査部の面接試験をうけて 働き始めたそうです ここからは 2番目の妹のYさんに聞いた話を元に書いています 2…

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祖父と戦争 その7

前回のブログで 領事館警察官になった祖父ですが その後の話を・・・ (前回のブログはこちら→「祖父と戦争  その6」について) 前回 結婚の約束をした彼女の事ですが・・・ 1年経って 中国にいる祖父の代わりに 祖父の父が結婚の申し込みへ行った所 中国へ娘を行かせるのは心配だったのか・・・彼女の両親に断られてしまったそうです その彼女とは それっきり・・・ その後 どうなったのか?分かりません どんな女性だったのか 写真もないので分かりません 祖父がこの女性と結婚していたら どんな人生を歩んでいったのか 少し考えてしまいます(私が生まれないことになりますが・・・) 新人の仕事内容は 警察と役所の仕事を両方していたそうです(出生届、在留届、結婚届など) 上司の仕事は共産軍の情報集めたり、日本人の店の営業許可(許可を出すのは総領事で 下調べをするのが警察の仕事)や、看護師・医者の開業許可などです もし勝手に店などを出していたら 領事館に呼び出し注意します 何らかの犯罪を犯した者は 上海の大きい領事館の中の裁判所で 裁判(当時は裁判官は領事が行う)をして、罪の重さを決めます それから日本へ送られ、そして日本の刑務所で服役します 上海で犯罪を犯すと 上海での在留禁止が出たそうです 近くの病院には 日本人の医者が13人くらい 中国人の医者が5人くらいいて 看護婦さんは 日本人の看護婦が20人くらい 中国人の看護婦…

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祖父と戦争  その6

戦地から 帰ってきた 祖父は 以前勤めていた魚屋で働き始めます (前回の話は こちらへ→「祖父と戦争 その5」について) ところが 戦争が激しくなると 魚をとるための船の油がなくなり 築地の市場では思うように買えなくなりました 問屋や闇市で仕入れるようになり 品ぞろえは良くないが奪い合うようになり クジにかけるようになりました 魚屋も商売が徐々に成り立たなくなってきました 昭和16年7月頃 そこで 祖父は 魚屋をやめて 領事館警察官の試験をうけることになりました 4,000人 受けたなか 祖父を含め  400人が合格し 大学が夏休みの間を利用して 研修が1ヶ月間行われたそうです その研修の間にも 召集されて 研修を卒業できたのは 270人にだったそうです 130人は 警察官になる事なく 召集されて戦地へ向かいました そして 祖父は警察官となり 上海へ派遣されることになりました 拝命時の写真(皇居前にて) (写真をクリックすると 少し見やすく大きくなります) 拝命時の写真 祖父は 当時 魚屋で知り合った女の人と 結婚の約束をしたそうです その人は奥多摩に住んでいて 祖父は制服を着て 会いに行きました ところが 領事館警察官の制服は 日本国内の警察官よりも 派手で金モールなどが付いていたため 田舎の駅員が 祖父を偉い警察官と勘違いし 降りる駅に連絡をしてしまいました …

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祖父と戦争 その5

前回の話は こちらへ→「祖父と戦争 その4 戦地からの手紙」について 祖父は戦地で 怪我をすること無く 時は流れ・・・ 昭和15年 8月の事 祖父は夕方 上の人に呼ばれます 内地(日本)から初年兵が補充され 余剰人員として 召集解除になり内地へ帰還する者が 明日 発表されるとのこと 通常は 3年兵が主に召集解除になるのだが 1年兵の中も何人か含まれるとのことで 祖父も名前を呼ばれるので 準備をしておくようにと言われたそうです そして 次の日の朝 隊長が 帰還する者の名前を呼んで言ったそうです 『・・・以上○○名・・・』 何故か 祖父の名前は呼ばれずに 発表が終わり 『昨日 名前を呼ばれるって言われて まだ呼ばれてないヤツいるか?』 と隊長 祖父が呼ばれていなかったので 前に出ると 『○○です』 と祖父 『そんな名前は無い!!』と隊長 祖父は 必死で 隊長の持っている紙をよく見てみると 自分の名前がそこに・・・隊長が読み間違えたのです 祖父の苗字(私も同じ名字なんですが・・・) 簡単な字なのですが ちょっと変わった読み方なので 知らない人は読めないんです 同じく帰る予定になっていた同期で友人のHさんは 入る予定の初年兵3名が士官学校への入学が決まり その分 3名人数が減り 召集解除にな…

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祖父と戦争 その4 戦地からの手紙

前回の続きで 祖父がとっておいた戦地からの手紙から当時の様子を少し (前回のブログは こちらへ→「祖父と戦争  その3」について) 封筒や表書きは こんな感じです (画像をクリックすると 少し大きく見やすくなります) 戦地からの手紙は すべて検閲をされ 検閲済みの印を押されます 部隊が どこの場所にいるのか 秘密にされていたようで 祖父の方の住所は W部隊 I部隊 S隊 M平隊 となっていました ローマ字部分はそれぞその隊長の名前です (個人名なので 伏せさせていただきました) 右上の一枚だけが 友達から祖父に宛てた物で 残りは すべて祖父から父親へ宛てた手紙です その中から一つを紹介します 戦地から 祖父が祖父の父親(以下:父)に宛てて送った手紙です 場所などは伏字が使われ ○○と書かれています 昔の字体なので 私の解読できた範囲で・・・ (前回までのブログと 日時が前後します・・・すみません)   『 昭和14年も余すところ数日の28日に慰問品頂戴いたしました。    当日は○○(場所は伏せられています)へ正月用品の買い出し    久しぶりに映画を観にいき 帰ると慰問袋の事喜びました        ○○は現在 1万人程度の日本居留民がおり 日本料亭    日本人商店等軒を並べ 東京と少しも変わりません    物価は割合高いですがまぐろ寿司も食べられますし    青畳の上ですき焼きも食べる事ができ…

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祖父と戦争  その3

前回のブログにて 祖父が日中戦争へ行った時の事を書きました (前回のブログは こちら→「祖父と戦争  その2」について) ここからは 祖父が私に語ってくれた話と 叔母が祖父から聞き取りをした話などを 書いていきたいと思います 祖父は召集される前 高等小学を出てから 魚屋で小僧(丁稚奉公)をしていました そのため戦地に行って しばらくすると 前の中隊長のK当番兵から 「○○(祖父の事)は 魚屋をしていたんだから、俺の後を 当番兵をやれ」と言われました 中隊長の当番兵として、3度の食事と洗濯、身のまわりの世話をすべてすることとなりました 食事は 中隊長から お金をもらい 町に特別のおかずを買いに行ったそうです 川魚が多く 煮魚などを作ったそうで 魚屋の小僧時代の料理の経験が役に立ち 中隊長に喜ばれたそうです 洗濯をしたら アイロンなんてものはないので 乾いてから 中隊長のズボンなどをキレイに伸ばし 自分の寝る布団の下に引きます(うっかり やるのを忘れた事もあったそうですが…) それで 寝ると シワが綺麗にのびて 形のいいズボンになるそうです 上等兵になると 衛兵司令(門番の長)をしたそうです 歩哨係1人、その部下に衛兵係3人で 城門の門番の仕事をします 町には、城壁があり、城門が4つあったそうで 1週間、城壁の当番をしたそうです 城門が家になっていて、そこに寝泊りして 中国の警察と兵隊が…

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料理・・・

かなり前ですが・・・ 圧力鍋を買いました ピエールは箱に興味津々 ダンボールをガジガジしてます(笑) こっちの箱は?? 何が入ってるにゃ?? こっちの箱も気になるにゃ~ 開けて!!開けて!! ピ 『 まだかにゃ~~ 』 台所を見つめるピエール(私 パジャマです:笑) 試しに 初めて使うので カレーを作ってみました(これも かなり前の写真) 野菜は大きめに切らないと 溶けちゃうんですね(ジャガイモとか・・・) ちなみに 一昨日は 角煮を作ってみました 美味しく出来たけど・・・ 鍋の使い方とか 慣れるまで ちょっと時間がかかりそうです カレーの話で思い出したのですが 祖父が子供の頃 隣りの家は 貸家になっていて その頃 近くにJRの鉄道が開通するために 工事が進んでいて ナベトロっていう工事用トロッコの運転手の家族が住んでいたそうです 東京から来た家族で  ある日 祖父たち兄妹は夕飯に招かれ 生まれて初めて カレーというものを食べたそうです 今のカレーとはちょっと違ったと言っていました 田舎ではカレーなんて食べた事もなかったそうですが もうその頃(昭和初期) 東京の人たちは カレーが夕食に出るほど 一般的だっ…

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祖父と戦争  その2

祖父が戦争へ行った時の話です 興味のある方は 読んでくださると 嬉しいです 前回の話で 祖父が召集された話をしました  (前回の記事は こちら→「祖父と戦争」について) 祖父が戦争に行った期間は とても短いものでした そこで何があったのか 多くを語りませんでした なので 少しだけ・・・ 訓練を終え 戦地へ派遣が決まった日に撮った写真 (昭和14年7月22日撮影) 祖父は歩兵部隊の機関銃隊に配属されました 馬が機関銃や荷物を運んでいたそうです まだ 戦闘経験もないうちは弾が飛んでくると怖くて みな 馬の陰に隠れたそうです そうすると 上官たちは 『おまえらは 1銭5厘の赤紙で召集されてきた 馬と機関銃は 天皇陛下からの賜り物で もっと金がかかっている』 と 言ったそうです 特に馬は戦地に連れてくるまでに すごくお金がかかったらしいです 馬も生き物ですから 命あるものは大事です 人間の命は尊いものではなかった時代でした ある時 その馬が クリーク(沼地)にはまってしまい どうしても抜けだせなくなった事があり その時 祖父とYさんが クリークに飛び込み  馬の脚を抱え持ち上げ馬を救い出したそうです その時は 夢中で クリークへ飛び込み 馬を救い出した祖父でしたが その後が大変だったというのです 全身泥まみれでびし…

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祖父と戦争

私の父方の祖父は 日中戦争へ召集されました 祖父は たくさんではないけれど 戦争の話を話してくれました 覚えている事だけ 書き残しておこうと思います 私的なものですが 興味のある方は 読んでくださると 嬉しいです 祖父は 大正7年生まれです もう亡くなってしまいましたが 生きていれば93歳かな?? 祖父に 昭和14年 5月 召集令状が届きました 出征記念に撮った写真です 左から 祖父の父 祖父 祖父の母  2番目の妹  一番下の妹です 祖父の父は明治生まれの人で 身長が180cmくらいあります 当時しては かなりの大男だったそうです 顔を隠してしまったので 写真から表情が分かりませんが 祖父の両親は とても悲しそうな顔をしているように見えます 祖父の一番下の妹は この時 17歳くらいで 駅から出征する軍人さんを送り出す鼓笛隊で 小太鼓を演奏したりしていたそうです 祖父の話によると こうして 大々的に写真まで撮って送りだされる人は まだ幸せなで 戦争末期には召集されると 大工さんは大工の仕事着のまま それぞれの仕事着のまま 夕方にこっそりっていう言い方も変ですが・・・  軍隊へ集まることとされたようです 祖父は日中戦争で まだ日本が劣勢ではなかった頃なので 派手に送りだされ 写真も残っていま…

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実家の近所のニャンコ

先日 実家に帰った時に 実家の近所でニャンコを見かけました 私の祖父の同級生のお家のニャンコです 昨年 祖父は亡くなりましたが その同級生のおじさんは92歳で元気!!ボケてもいません 同級生5人だけになってしまったが お互い目と鼻の先に家があって良かった・・・というのが 祖父とおじさんの口癖でした 二人で話をすると 80年以上 昔の小学生の頃の話を ついこの間のことのように話すのです(笑)      若い女の音楽の先生をからかって 泣かせた・・・・とか      **くんは 女に恋文書いて それを先生に見つかり怒られた・・・      あいつは すけべぇだったからなぁ・・・・              とか      体操の時間に 先生が女子ばかり ひいきするから 男子全員で授業を      ストライキして裏山へ逃げ込んだ      (今で言う学級崩壊も顔負けの所業だけど・・・80年経った今でも       正当な理由だと2人で言っていました)      次の日 祖父は学級のまとめ役だったため 先生に殴られた                                           などなど 聞いていると クスッと笑ってしまうようなものばかり・・・・ 祖父がいないので もう昔話を話す2人の姿は見れませんが 同級生のおじさんに…

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完成!!畑

土日は家庭菜園のための畑づくり・・・・ ピエールは中から見物 先週も耕して やっと腐葉土堆肥を土に混ぜました 畑じゃない所を耕すんだから 大変です こんな石が出てきたり 明治時代 北海道を開拓した人たちの苦労が分かる (いや こんなの比べ物にならないけど・・・) 北海道の開拓と言えば・・・ 私の曽祖母は明治生まれで埼玉の田舎の農家で育ったのですが 曽祖母が娘時代に 近所で北海道に開拓に行く人がいたそうです その若い青年は 曽祖母の事が好きだったのでしょう・・・ 出発の前の日に家に来て 『曽祖母に一緒に北海道へ行ってくれないか?』と言ったそうです でも 曽祖母は長女で幼い弟たちが6人もいて 伯父が保証人になった事が原因で家が貧乏してしまい 働きに出なければならなかったのです もちろん 断ったから今日の私がいるのですが・・・ 曽祖母がそのまま北海道に行ったらどんな人生だったのかなぁ…と 時々 思います 祖父にも同じような?結婚の話がありますが 長くなるので また今度 昔は今のように結婚相手を自由に選べる時代じゃなかったから NHKの朝のドラマみたいな話 どんな人にもあるのかもしれませんね 話がそれてしまいました…

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おふくろの味 その2

私の祖父には、おふくろの味がないらしい・・・ 母親は、とっても働き者で小さな食料品店?というか?田舎のなんでも屋を営んでいたため、 リヤカーを引いて隣の字や隣町まで商売にいっていた。 そんなわけで、ご飯は自分たちで作ることが多かったとか・・・・ 祖父が妹たちと集まると必ず、 おじいさん(祖父の父親)の炊き込みご飯がもう一度たべたいなぁ・・・と 祖父たち兄弟にとっては、おじいさんの炊き込みご飯がおふくろの味ならぬ、 おやじの味だそうです。 私は、祖父の天ぷらがもう一度食べたい。(私にとっての、おじいちゃんの味です。)

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